ぶらぶらと歩いていると石造美術、庭園、建造物といろいろな文化財に出会います。「こんなところにこんなものがあるよ」と記しておきたいと、ぶらぶら歩いて目にとまったものを「ぶらぶらある記」として書いてみました。

第一回 丹後宮津

◆丹後国一ノ宮籠神社 
 社殿は神明造で棟持柱と小狭(おさ)小舞(こまい)を持ち、堅魚木は十本、千木は水平切りの内宮式です。

 神門の前に一対の石造狛犬〔重文〕が据えられています。 石英安山岩製で、高さ1メートル弱。鎌倉時代後期のものとされます。右の「ア」形の首をめぐる毛は巻き毛。上を向いて開口する猛々しい表情。左の「ウン」形は毛を重々しい総のようにして不動の面構え。日本風木彫狛犬の系統をひく丁寧な造りです。

◆水船(砂岩) 
  手水屋の中にある水舟は、形は通常ですが下端に短弁の蓮弁がとりまく珍しい意匠があります。一面に「一宮神前 水舟也 永享五癸丑年八月日 願主忠益 敬白」の銘がある室町時代前期のものです。


 籠神社は雪舟筆の「天橋立図」〔国宝〕や日本最古の系図とされる「海部氏系図」〔国宝〕を所蔵されていますが、近くの丹後郷土資料館で保管されています。宮津湾北東の栗田峠からの天橋立は夕照の橋立としてしられ、雪舟の天橋立図はこの辺りからの眺めとして、雪舟の東屋というのが建っています。

 車で成相寺へ登る途中に丹後郷土資料館があります。資料館の前は丹後国分寺跡で礎石のみが残っています。その資料館の前に、京都府指定文化財旧永島家住宅が移築されています。永島家住宅は京都府竹野郡丹後町に天保十年に建てられた四間取型養蚕農家です。昭和58年京都府に部材が寄贈され、平成7年この地に移築復元されました。

 三上家住宅〔京都府指定文化財〕 屋号を元結屋(もつといや)といい、城下町宮津の、酒造りと廻船問屋を兼ねた旧家です。母屋は天明三年(1783)の完成で、建物は防火の配慮から外部に面する柱を塗り込める大壁造とし、窓、出入口のみならず煙出しにまで土扉を設けています。またニワでは上部の小屋組があらわになっており、豪壮な梁や垂木を扇状に打つ扇垂木などを見ることができます。家業の発展や家格の上昇にともない、増築や改造が行われ、文政三年(1820)には主屋棟の南側に新座敷が、天保八年(1837)には質の高い庭座敷棟が建て増されたと考えられます。庭座敷棟の北側の式台を備えた玄関は、表門とともに天保九年に幕府巡見使を迎えるため、急遽増築されたものです。

 平成12年に京都府指定名勝に指定された三上家の庭園は、座敷の南隅に位置し、ニシザシキから南方向への座視鑑賞を主とする配置に築かれています。家伝では、宮津藩御用庭師の江戸金の作庭と伝え、石組みが低下していく江戸時代中末期の民家庭園の中で、一般的な傾向に反して、市中の限られた空間に池と築山を設け、特徴ある形の石を大胆に配置しており、座視鑑賞を強く意識した商家の庭園として価値の高いものです。


 三上家に近い袋屋は江戸時代から続いている醤油醸造業の商家で、今も醤油の販売をされています。店先のカウンターや作業場の造りに昔ながらの商家の面影を知ることができます。

 かつて宮津城の外堀だったという大手川と京街道の間に宮津カトリック教会(聖ヨハネ天主堂)があります。明治二十一年宮津へ来た仏人神父ルイ・ルラーブが明治二十九年にこの天主堂を建築。長崎・大浦天主堂と並んで明治の面影を今もとどめる、和風ロマネスク様式の木造建造物としてわが国最古のものとされています。宮津の船大工の手によるといわれるこの天主堂は、和風の柱や棟木とステンドグラスが奇妙にマッチし、引き込みになった窓枠にも和風木造建築の技術が残されています。
 天橋立桟橋のすぐ近くにある知恩寺には“黄金閣”と呼ばれる山門、多宝塔、“切戸の文殊”で親しまれる文殊堂が建っています。境内には宝筐印塔(鎌倉後期)、知恵の輪燈籠、などがありますが、書院前庭にあるマリア燈籠は織部形をし、マリアの像と言われるものが刻まれています。五輪塔の火輪(笠)は普通平面四角に作られますが、火輪を三角にしたものがあります。天橋立駅の西、旧国道に沿った海側の民家の間に石造三角五輪塔が残っています。この文殊三角五輪塔は花崗岩製、高さ2.5メートル、水輪の球形が背が高くて裾ですぼまる形からいうと、鎌倉末期であろうと思われます。古い三角五輪塔としては最大で、注目すべきものです。

『林泉』第581号 平成13年11月号「ぶらぶらある記」より