第二回 滋賀県高島町・安曇川町の石造美術

◆満願寺跡宝塔(鶴の塔)
 JR湖西線安曇川駅の西南に三尾里という集落があり、土地の人たちに鶴の塔と呼ばれる宝塔があります。文献では満願寺跡宝塔と記されているのは、むかし満願寺という寺がありましたが今は廃寺となり、小字寺の前と呼ばれる民家の間にこの塔は立っています。 宝塔は高さ4メートル、花崗岩製、鎌倉時代中期、相輪は江戸時代の後補です。
 「基礎は低く塔身は勾欄つきの首部を別石で作る。軸部のゆるやかな形は古風を伝える。正面に扉型を開いて内に法華経に説く二仏並座の姿が彫出され、古雅な像容を示す。部首の上に持送石を入れて、写実的に進歩している。笠の屋根流れ、隅棟、軒の反りは鎌倉調だが強さよりも伸びやかさが勝り、全体として鎌倉前期に近い様式を示す。天台宗膝元の近江に鎌倉時代の宝塔は多いが、その中でも形が大きく、年代も古い優作である。川勝政太郎著石造美術辞典より」
 宝塔は「法華経見宝塔品」に基づく塔形で、通常下に基礎を置き、軸部と首部からなる塔身を載せ、笠を置き、最上部に相輪を立てます。そして塔身の平面が円形で、笠は方形の四注状が通常です。軸部には正面または四方に扉形を刻んだもの、経説の通り多宝・釈迦の二仏並坐の像容を表したもの、二仏の種子「ア・バク」を月輪内に彫出したものもあります。
 近畿地方の石造宝塔では平安時代のものとして鞍馬寺宝塔が国宝に、滋賀県大津市の長安寺宝塔が重文に指定されています。
 この宝塔は正面の空地が狭く、写真で二仏並坐の姿を刻出する全容をご紹介できなかったのが残念です。

 満願寺跡宝塔から200メートルほど南にいくと安閑神社があります。道から細い通路を通り正面に出ます。この安閑神社境内に絵文字が刻まれた「神代文字の石」と呼ばれる碑があり、かつて橋桁に使われていたものだそうです。安曇川町の三尾神社の神宝に「秀真伝(ほつまつたえ)」という、原古事記ともいわれる神代の近江地方のことを神代文字で記した和仁古(わにこ)家の古文書が残っていて、この文字がよく似ているということですが。石造美術として認知されていないこの石に何か古代へのロマンを感じてしまいます。
 高島町の宿鴨,南鴨という集落にも南北朝や室町の石仏がいくつもあります。その集落を抜けて永田という集落の長盛寺と言う天台宗真盛派の寺に行きます。寺は無住ですが境内は駐車場になり、まわりは整備されています。本堂の前に一体の地蔵石仏が立っています。地蔵石仏は花崗岩製で高さ約1.7メートル。舟形光背を造り、下に蓮華座を設けて地蔵立像を半肉彫しています。均整の取れた姿のよい地蔵で、柄の短い錫状を持ち、木沓をはいているところは近江地蔵石仏の特色を表しています。連弁の形式からも鎌倉時代後期の像立とされています。石仏の下に使われている台石に地蔵種子「カ」を刻み、地蔵と同時代のものと思われます。
 集落の西には地蔵堂があり、室町初期の定印の阿弥陀仏や周囲にも地蔵・阿弥陀の石仏があります。
 高島町音羽の集落に大炊神社があります。大炊神社の境内に長谷寺の薬師堂があり薬師堂には薬師如来坐像〔重文 ・藤原時代〕が祀られています。堂の横に二つの古塔があって左の宝筐印塔の相輪は後補ですが鎌倉時代正中三年の在銘です。正面の格狭間には開蓮華が見えます。右の塔、宝筐印塔屋蓋を持つこの塔は、塔身は球形で四仏を刻し、五輪塔水輪の転用かとされ、基礎は六角に返花座が置かれています。屋蓋四注形石造宝筐印塔については1988年頃佐々木先生が「歴史と伝承」で記述しておられますが、塔身が球形に近い宝筐印塔は滋賀県百済寺に鎌倉時代の宝筐印塔が残っていますので、最初から四方仏を持つ、屋蓋四注形宝筐印塔として作られたと考えたいところです。
 水尾神社は延喜式に名神、大社に列する古社で、古代この地方に栄えた三尾君一族の祖神です。本殿玉垣外の左手に高さ2.5メートル位の石燈籠が建っています。笠の蕨手は垂直に巻き、竿は六角で三節とも連珠文をつけ、火袋には四天王立像を彫っています。鎌倉時代中期の様式をもつ見ごたえのある六角形石燈籠です。

 かつて林の中にばらばらに転がっていた石造残欠も整理され積み直されています。しかしまだまだ「ごけやもめ」のものもあります。「ごけやもめ」(佐々木先生は時代が同じで形式{宝塔と宝筐印塔のように}が違う石造を重ねたものをよくこのように表現されました)その中で、塔身に四方仏を彫出する層塔は仁治二年(1241)の年号を持ち、近江層塔の在銘では一番古いものです。


水尾神社ごけやもめ石塔

水尾神社層塔残欠

 上拝戸から安曇川町へ戻る道の旧道を行くと横山の集落に大清寺があります。新しく作られた庭園の中で、庫裏から本堂へ渡る廊下をくぐった中に、江戸初期といわれる庭園が残っています。今は木や草花の下から見え隠れし、石組の確認はできませんが、草のない時期にゆっくり観賞したいと思う庭園です。

大清寺庭園

大清寺庭園・亀島

 安曇川町田中に多くの石造美術が残されています。まずは玉泉寺です。玉泉寺の門前には地蔵石仏(室町)がまつられています。境内に入り本堂の正面には厚い笠を持ち塔身に像容を彫した鎌倉時代五重塔や、少し小ぶりですが低い無地の基礎の上に部首だけを作り塔身に四方仏を彫出し、笠も低平でゆるやかな降りを持つ鎌倉時代宝塔があります。相輪の失われているのが残念です。左に並ぶ宝塔南北朝のものですが基礎の格狭間に二茎蓮華の「のし結び」を表した珍しいものです。

左端宝塔基礎の「のし結び」

 本堂右手には丸彫りの1.5メートルをこえる大きな石仏が並んでいます。阿弥陀如来、薬師如来、大日如来、弥勒如来、釈迦如来の五智如来です。他にも定印の弥陀石仏二体があります。いずれも室町期のものと思われますが、その堂々とした姿には驚きです。

 玉泉寺の駐車場を北に入ると墓地の入り口に石鳥居が立っています。鳥居は神社のものと思われていますが、墓地に建つこともあります。大原北墓地にも室町時代の石鳥居がありますし、四天王寺石鳥居〔重文〕は西方極楽浄土に入る門といわれています。墓地の鳥居は弥陀の浄土に旅立つための入り口にあたります。鳥居をくぐると中世の小石仏がずらりと並んでいます。中には石垣に使われているものもあるようです。墓石をこえて右手の山側によると大きな石仏がずらりと並んでいます。馬頭観音、十一面観音、十一面千手観音など六観音を表した石仏のようです。その六観音と重なるように六地蔵石仏と思われる石仏や阿弥陀・地蔵の石仏も見られます。

 墓地の一番奥の塵の中から石仏が出てきたと地元の人に教えていただきました。(2005年3月)案内していただくと非常に美しい阿弥陀石仏です。墓地の中には掘り出された石仏が所狭しと並べられていますが、これほど大きなものはありません。そして、この墓地の石仏の中では一番古い形式をもっているように思われます。お顔も柔和、衣文の流れも美しく、しっかりと弥陀の定印を結んでいます。鎌倉時代まで持っていけそうな石仏です。この墓地は昔からの村の共同墓地で、掘ればまだまだ出てくるだろうという話でした。
 そばには、正面に開蓮華、両横に三茎蓮華を彫った大きな基礎石も転がっています。宝塔の基礎石のように思われますが、この上に乗る宝塔はずいぶん大きなものだと思います。
 田中集落の田中神社石段下石塔が並べられています。かつては笠や塔身がばらばらに散乱し、「風呂敷に包んで持って帰って手水鉢にしようか」などと言っていたこともありましたが、今は整備されきれいに並べられています。一番手前にある宝塔基礎格狭間には開蓮華宝瓶三茎蓮華が刻出されています。鎌倉時代後期のものだと思われます。湖東、湖西を問わず、近江の石造美術の蓮華文様は美しく、開蓮華、三茎蓮華、散蓮華とその文様を見ているだけでも石造美術を楽しむことができます。
宝筐印塔基礎永仁二年(1294)のを持つものがあり、一つは階段の途中に置かれています。
『林泉』第582号 平成13年12月号
第583号 平成14年 1月号「ぶらぶらある記」より