第三回 大和郡山市城下町をあるく

◆大和郡山市城下町
 天正八年、大和一国を領した筒井順慶は、郷の筒井から郡山に移りここに居城を築きましたが、天正十二年36歳で没し、翌十三年豊臣秀吉の異父弟にあたる豊臣秀長が大和・紀伊・和泉三国の太守として百万石でこの地に封じられ、さらに大規模な築城を行い城下町の繁栄にも力を尽くしました。その後、城主はしばしば代わりましたが、享保年柳沢吉保の子吉里が甲斐国から転封となり、以来明治まで続きました。明治初年に城の建物は取り壊されましたが石垣はよく残り、本丸跡には柳沢吉保を祀る柳沢神社が明治十三年に創立され、城内の一角には柳沢家所蔵の書画、歴史資料が柳沢文庫として公開されています。


郡山城・野面積みの石組
  一見雑多に組まれたような城の石垣(のづら野面積み)には石塔の残欠や石仏が見受けられます。梵字の彫られた石塔の塔身らしきものや、小さな石仏も押込めたように石垣の間に見えます。その石垣に奈良時代の優れた石仏が使われていたり、永仁六年の年号を持つ宝筐印塔基礎石、鎌倉後期の地蔵・十王両面石仏もあると、この石垣の石造物を発見された清水俊明先生は著書『大和の石仏』の中で記しておられます。

梵字の彫られた石塔の残欠

石垣に押し込まれたような石仏

 城内にある柳沢文庫の前は刈り込みの庭園になっています。美しく刈込まれた植栽やうつくし松の幼樹、白梅紅梅が随所に配され、気持ちのよい空間が造られています。
 「庭園」という語は中国で古くからあった庭(ひろば)という字と園(はたけ)というのを熟語にして、明治の十年頃に誕生したといわれます。「園」という字と「苑」という字は広辞苑によると同義語だと書されていますが、この庭を見ているとなんとなく「庭苑」と書いてみたいような感じがします。
 奈良ホテルとよく似た建物があります。この建物は、もと県立奈良図書館として、明治四十一年に建てられた木造建築二階建で、外観は日本の古代建築を模し、内部には明治の近代洋風建築を取り入れた貴重な建築物です。昭和四十五年にこの地に移築され、現在は市民の集会所として利用されていますが傷みも激しく、今後の保存・改修に不安が残ります。

  追手門、東角櫓、多門隅櫓は昭和五十年代に再建されたもので、台湾檜が使用されています。
 城跡公園を東へ出ると創業四百年に及ぶという「城ノ口餅」の本店菊屋があります。豊臣秀吉が郡山城に来城したとき秀長が接待に出し、郡山城の入り口で販売したのが始まりという菊屋の店先は衝立と床机を残した古風な構えにしつらえています。
 豊臣秀長公の菩提寺、惷岳院の前に来ました。中をのぞくとなにやら古そうな七重石塔が見えます。中に入ってみると、石塔は七重塔にしつらえられていますが、笠は宝筐印塔の台座・受花も流用されているようです。しかし塔身の四方仏はすばらしいものです。赤みをおびた花崗岩に壺型の光背を彫り込み像を厚く彫り、像の下に蓮台を浅く浮彫りにしています。
 層塔の軸部には四方仏を彫しますが、それには種子の梵字を刻んだものと、仏像の像容を彫刻したものとがあります。これらの四方仏は木造塔内に仏像を安置するのと同じ意味で、塔の本尊をあらわしています。

 また、四方仏には顕教四方仏と、密教四仏の二つの系統があります。顕教の四仏は奈良時代にはじまる塔基の四方仏で(東)薬師 (南)釈迦 (西)弥陀 (北)弥勒の配置になります。密教の四仏は真言・天台の密教が平安時代に輸入されて以来のもので、これには金剛界四仏と胎蔵界四仏の二種があります。
釈迦の印相は右手をあげ左手をのべるか、両手とも掌を開いて外に向けていますが、この四方仏の釈迦は右掌を外に、左掌を内に指を捻じた説法印を結んでいます。奈良期石仏の形式を残した鎌倉期の塔身石仏と思われます。

 矢田越えの旧街道を西に入ると薬園(やくおん)八幡神社に出ます。本殿は一間社隅木入春日造、檜皮葺。桃山時代の建築で県指定文化財。幣殿と拝殿が本殿に付随し、そこに三十六歌仙扁額が架けられています。(三十六歌仙のことは佐々木先生が林泉誌に掲載しておられました。林泉556号、平成11年10月に薬園神社の三十六歌仙を記載されています)
 薬園八幡神社には面白い狛犬があります。右に口を開いた「ア」像、左にしっかり口を結んだ「ウン」像。そしてウン像には一本の角がつけられています。少し肥満体ですがしっかりした巻き毛やウン像には力強い足の筋肉も表現されています。そして雌雄の形状も丁寧に彫られています。しっかりした彫像に少し時代があがるかと思いましたが、ウン像の台座下に天明元年の年号が刻まれていました。
 石造美術鑑賞の中で狛犬の鑑賞は特に楽しいものです。その形状が具体的であり親しみやすいからでしょう。そして、私たちが狛犬の覗きをはじめたのは都祁水分神社の狛犬を見たとき、佐々木先生から股間の細工もしっかりしていると説明を受けてからです。
※「狛犬」 獅子ともいう。獅子形を一対に作り社殿や神殿の縁に置く。その源流は中国の漢代以来の帝陵前においた石獅子にあり、守護的な像としてわが国にも用いられた。石狛犬としては鎌倉時代はじめに宋製のものが輸入されたが、和風化した作品のあらわれるのは鎌倉時代後期からである。江戸時代には宋風のものが造られるようになった。多くは一方が口を開き、一方が口を閉じて、ア・ウンの一対となるが必ずしもそうとは決まっていないし、雌雄の区別もしいてするほどの特徴はない。(川勝政太郎著『石造美術入門』より)

 実相寺は慶長年間の開基と伝えられますが、本尊の木造阿弥陀如来は鎌倉時代初期に造立されたもので、もと法隆寺方面にあったものを移したといわれています。現本堂は寄棟造、本瓦葺。寺蔵の過去帳によると慶安四年の建立と推定されるということです。

 本堂前にある十三重塔は総高約四メートル、相輪の先は少しかけていますが、笠は緩やかなそりを持ち、初重軸部には舟形光背を掘り窪め、その中に受花に乗る四方仏が彫出されています。西は弥陀・東に薬師・南は弥勒・北に釈迦とはっきりと像様を見ることができるのは嬉しいことです。全体にやさしい感じの鎌倉中期十三重塔です。


 境内の小堂に石仏が祀られています。格子戸から覗いてみました。笠の部分には布が被せてありますが石仏龕ではないかと思われます。箱形の中には弥陀三尊がそれぞれ円座の上に立っておられます。中尊は来迎印を結ぶ阿弥陀、右は蓮台らしきものをささげる観音、左は合掌する勢至です。中尊の衣文も美しく、室町期も早い頃のものだと思いました。

紺屋資料館

紺屋川旧石橋
 城下町の面影を失っていく町並みの中で紺屋町が整備されました。紺屋町は染物の同業者の町、東西に長い両側町で、町の中央には紺屋川という水路が流れています。その水路に架かる石橋は新しく作られていますが、一つ残された旧石橋側面に文字が見えます。東側には「なら・・・」、西側には「・・平」と。
明和年間建築の奥野家は市に寄贈され、平成12年4月に紺屋資料館としてオープンしました。

 矢田越え街道の南に源九郎稲荷神社があります。源九郎稲荷神社は源義経が厚く信仰したところで、義経千本桜の狐忠信はこの稲荷の化身と伝えられ、義経が奥羽に下るとき源九郎の名を贈ったことから源九郎稲荷と呼ばれるようになったといいます。
 このあたりは昔の郭町で千本格子の妓楼がびっしりと並んでいたそうです。総千本格子の三階建て、奈良格子と千本格子の組み合わせ。おそらく昭和初期の建物なのでしょう。今は五軒しか残らず、その内ほとんどが無住だというこの町の細い道を歩いていると、かつて華やかだった木造建築の技術や指物がなくなってしまうことを残念に思います。幸い旧川本楼を大和郡山市が管理することになったという話を聞きました。建物の生かせる使い道を考えてください。

 


格子細工の美しい旧妓楼

旧郭町・千本格子の三階建て

 稲荷神社の地続きにある洞泉寺は天正十三年豊臣秀長が建立した寺で、本尊阿弥陀三尊は鎌倉時代の作で重要文化財に指定されています。
 境内の光明皇后勅願、垢掻湯船地蔵尊と書かれた堂内に安置される地蔵尊は、郡山城の靴脱ぎ石なっていたと伝え、堂前にあるくりぬき石の湯槽石と一組となって光明皇后が病人を癒すのに用いたという伝承があります。
 地蔵尊は箱形石を深く掘り窪め左手に宝珠、右手に錫杖を持つ通常の姿ですが、錫杖を垂直に立て手首をひねって柄を持つ技巧が優れ、衣文も美しく南北朝時代の作風とされています。
 湯船は、「カナンボ石」と呼ぶ堅い石を内側はきれいに磨き上げ、外側下半分は荒石のままで、内側には段を作り、下部には水落としの穴をあけています。水槽内の四面に金剛界四仏の梵字を刻んでいます。梵字の書体から鎌倉後期のものとされています。
 石造美術で水舟と分類されるものの中にはは湯を浴びるために使った石風呂と神仏に参るときに手を清めるために設けられた手水鉢とがあります。奈良市春日奥山に残される高山水舟は手水鉢であり、岩船寺門前のものは湯船であろうと考えられます。

『林泉』第585号 平成14年3月号
第586号 平成14年4月号
第587号 平成14年5月号「ぶらぶらある記」より