第四回 もうひとつの飛鳥

◆飛鳥の石造品
 飛鳥と呼ばれる地域が二つあります。「古事記」に履中天皇の同母弟(後の反正天皇)が、難波から大和の石上神宮に参向する途中で二泊し、その地を名付けるに、近い方を「近つ飛鳥」、遠い方を「遠つ飛鳥」と名付けたというものです。「近つ飛鳥」は今の大阪府羽曳野市飛鳥を中心とした地域をさし、「遠つ飛鳥」は奈良県高市郡明日香村飛鳥を中心とした地域をさします。  遠つ飛鳥へは何度も足を運び、石舞台古墳、酒船石、益田の岩船、亀石など、なぞの石造物といわれるものに心躍らせたものです。高松塚古墳、キトラ古墳、酒船石遺跡と発掘の話題があるたびに足を運んだ飛鳥にも意外と人に出会わない場所がありました。そんなもうひとつの飛鳥を歩いて見ましょう。

 飛鳥駅からキトラ古墳の矢印に沿って西へ歩いていきますと高松塚古墳への分かれ道を過ぎ檜前(ひのくま)の交差点を過ぎると、ゆるやかな棚田の森の中に於美阿志神社が鎮座します。神社の前に立札があります。「於美阿志神社・桧隈寺跡 桧隈は、百済から渡来した阿智使主(あちのおみ)が居住したと伝えられ、於美阿志神社はその阿智使主を祭神とする。桧隈寺跡は、その神社の境内にあり、塔・講堂と推定される建物跡を残す。『日本書紀』天武天皇朱鳥元年の条に桧隈寺の寺名が見え、寺跡からは七世紀末の瓦が出土する。現在塔跡にある十三重塔は上層の一部を欠いているが重要文化財に指定されている。」

◆石造層塔
 
層塔は普通最下に基礎があり、その上に軸部と屋根を何層かに積み上げた塔身が乗り、頂上の露盤の上に相輪を立てます。層は三層から十三層までの奇数で偶数のものはありません。初重軸部には四方仏をあらわしますが、それには仏像の像容を彫刻したものと種子の梵字をあらわしたものがあります。これらの四方仏は木造塔内に仏像を安置するのと同じ意味で塔の本尊であり、四方仏をあらわさないで無地のままの場合でも塔内には本尊があることになります。石造塔婆の大部分の種類は平安時代に入ってからあらわれますが、層塔だけは早く奈良時代から作られたようで、石塔寺三重塔、竜福寺層塔は奈良時代前期、塔の森十三重塔、鹿谷寺跡十三重塔、岩屋層塔は奈良時代後期とされています。

【顕教の四仏は奈良時代にはじまる塔基の四方仏で、種子をもって表現する場合には
東「バイ」(薬師) 南「バク」(釈迦)西「キリーク」(弥陀) 北「ユ」(弥勒)となる。

  密教の四仏は真言・天台の密教が平安時代に輸入されて以来のもので、これには金剛界四仏と胎蔵界四仏の二種がある。この二つは大日如来の理智の二徳を両部に分かったのみで、まったく同じものとされている。どちらも密教の四仏は大日如来を中心とするものであるから、塔自身を大日如来と見立て、大日の三昧耶形として扱われているのである。顕教のそれとは意義を異にしている。金剛界四仏は、東「ウーン」(阿?)・南「タラーク」(宝生)・西「キリーク」(弥陀)・北「アク」(不空成就)となり、胎蔵界四仏は、東「ア」(宝幢)・南「アー」(開敷華王)・西「アン」(弥陀)・北「アク」(天鼓雷音)となる。
川勝政太郎著、新版石造美術より抜粋】

於美阿志神社十三重塔
◆於美阿志神社十三重塔〔重文〕
  この平安時代後期の層塔は高さが4m以上あり凝灰岩でできています。本来は十三重塔ですが現在は十一重しかなく相輪も失われています。基礎は低く、初重軸部はほぼ方形で、四面に大きく月輪を線刻し、四方仏の種子を平底彫しています。各重の屋根は軸部を低く作り出し、軒は厚く、下部はほとんど水平に、上部はゆるやかに左右にのび、おおらかな軒反りを示しています。下から上への軒幅の逓減もゆるやかに美しく、全体にやさしいけれど雄大さを感じます。平底彫された四方仏の梵字は顕教の四仏ですが東方仏の薬師が金剛界四仏の「ウーン」(阿?)になっています。平安時代後期と判断されるのもそのところがあるかもわかりません。


塔身種子

種子キリーク

種子ウーン


池田才尊霊園内層塔

層塔塔身平底彫種子
  平底彫の梵字を見かけることはまれですが、最近池田市釈迦院背後の才尊霊園でそれを見かけました。5m以上ある大きな塔で現在笠は十一重積まれています。笠は鎌倉時代の様式を持つ立派なものです。そして初重軸部に、月輪の中に平底彫の梵字が彫されています。初重軸部と笠は明らかに別物です。よく見ると上部が笠と合わす為に切り込まれ、月輪の一部が切取られていますが、大きく彫られた梵字は平安時代の様式を持っています。
◆竜福寺層塔
 奈良時代前期の層塔が稲淵の竜福寺にあります。飛鳥川を渡り、飛鳥川上坐(あすかかわかみにいます)宇須多岐比売(うすたきひめの)命(みこと)神社という由々しき名前の神社の石段下にきました。ここから飛鳥川をさかのぼり、栢森の集落を過ぎると道は芋峠を越え吉野の宮滝へと続きますが、まずは稲淵の竜福寺を訪れましょう。案内書には竹野王石塔と書かれているものもあります。門を入って右側の仮屋の中におかれた石塔は窮屈そうです。足元にも石の残骸が無造作に置かれています。凝灰岩の笠はとろけ、銘文も肉眼ではほとんど読めません。石塔の説明は川勝政太郎博士の文章を転載します。

「石塔は門内の仮屋の中に立っている。破損して現在は四重目の軸部までになっているが、もとは五重の塔であったのであろう。初重軸部はやや背が高く、その四面に細かい字で銘文が彫ってある。軸部は屋根とは別石造で、上部へ向って逓減する。屋根の原形は軒の出が深く、軒裏を屋根と平行に斜めにほりこみ、中心に軸部をうける部分を作る古い手法が見られる。屋根の四隅には薄く降棟を彫り出してある。刻銘は東面が書出しで「昔阿育□王八万四千塔遍……」とあり、以下摩滅甚しく、北面の末尾に「天平勝宝三年(七五一)歳次辛卯四月廿四日丙子、重二位竹野王」とある。これによって竹野王塔とよばれるが、竹野王のことは明確ではない。奈良時代在銘層塔の資料として貴重な遺品である。
   石造美術辞典・川勝政太郎著」

◆栢森・稲淵と南淵請安

稲淵勧請縄雄綱

栢森勧請縄雌綱

マラ石
 栢森は飛鳥川の上流に位置します。この集落にも竜福寺があり隣に加夜奈留美命神社があります。古式ゆかしい社です。このあたりの飛鳥川は激しく岩をかみ淵をつくっています。数ヶ所残る石橋の跡や勧請縄の風習などが古代を今に伝えています。勧請縄の雌綱は栢森の入り口の田圃の中を飛鳥川をまたいでかかり、雄綱は稲淵の勧請橋の袂にかけられています。この勧請綱は毎年旧正月十一日を「初仕事・初田打ち」の日として、田畑に出て鍬を入れ、豊作を祈って新しく作り掛け替えています。

 稲淵集落の高台に鳥居と枯れた欅、墓があります。南淵請安の墓だとされています。南淵請安は七世紀の学者で小野妹子に従い入隋。中国に三〇余年とどまり舒明天皇十二年高向玄理と共に帰国しました。中大兄皇子や中臣鎌足らは請安に周孔の教えを学び、大化改新に与えた影響は少なくありません。

 祝戸の飛鳥保存財団研修宿泊所祝戸荘という難しい名前のところで『万葉あすか葉盛御膳』(古代食)というのを頂きました。にごり酒からはじまる二十種以上の料理は藤原京の遺跡から出土した木管を基に、古代の飛鳥の人々がどのようなものを食べていたのかを創造して再現されたものです。
  祝戸荘の入り口にマラ石とよばれる男性器を模した石造物があります。明日香村にある謎の石造物の一つです。飛鳥川をはさんだ対岸の丘陵を「フグリ山」と呼び、子孫繁栄や農耕信仰に関係した遺物だと考えることも出来るそうです。

◆専弥寺六臂如意輪観音坐像
 祝戸専弥寺の小堂の中に六臂如意輪観音坐像が安置されています。青味がかった花崗岩に高さ50p弱の、右手をほおに当て、右膝を立てた思惟の姿が薄肉彫で柔らかく表現されています。左手第一手は左膝外に置き、右の脇手それぞれに如意宝珠と念珠を持ち、左の脇手には連花と宝輪を持たれています。衣文の線が流麗で、二重円光の光背面にも衣文は広がっています。蓮台は薄肉まで作り出し、曲線の強い蓮弁を線彫しています。  清水俊明先生が明日香村で最も美しいといわれた鎌倉初期の石仏です。

 石舞台古墳を右手にして島の庄へ出てきました。推古三十年に曽我馬子が自邸に中島のある池庭を作ったので、時の人々は彼を島大臣(しまのをとど)と評したという場所はこのあたりではないかと思いましたが、バス停と小さな祠を見かけただけでした。

 飛鳥川に沿って橘寺へ向かいます。突然飛鳥川から風が吹き上がってきます。
 采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く
  志貴皇子のこの歌の歌碑は今甘橿丘に建っています。采女の袖を吹きかえし、飛鳥政権をも吹きかえしていった明日香風はやはりこんなにも強い風だったのだろうと、ひとしきり明日香風の話題のうちに橘寺につきました。

◆橘寺〔史跡〕
 橘寺は聖徳太子誕生の地と伝え、太子創建七カ寺の一つで、最盛期には66の諸堂を連ねていたそうです。昭和31年の発掘調査で東向きの四天王寺式伽藍配置であることが判明し、発掘された塔心礎は三方に添木根を受ける半円の孔を持った優雅なものです。橘寺形石灯篭の本歌(南北朝)は重文に指定され、もと本堂の前にあったと思われますが、今は本坊前に移されています。そしてここにも飛鳥謎の石造物の一つ、二面石があります。
◆川原寺跡
 西門を出ると北側に川原寺跡のきれいに並んだ伽藍石が見えます。斉明天皇の川原宮を寺に改めたのが起こりといわれる川原寺は天武天皇の頃から朝廷の特別な保護を受けて隆盛を誇っていましたが、平安時代になると衰退しはじめ、現在かろうじて弘福寺(ぐふくじ)があとを伝えています。  現在弘福寺の建つところが中金堂跡でその礎石は瑪瑙とよばれる白大理石を使用し豪壮華麗な往時を想像させます。中門や回廊の遺構が整備されきれいに礎石が並んでいますが、一つ二つ踏んでみてください。なんだか変な音がします。年月が経ち一見は本物の石とわからなくなりましたが、レプリカには自然に残ったものとの違いを感じます。

 帰途飛鳥駅へ向かう途中にも謎の石造物が点在します。亀石、鬼俎板、鬼の雪隠。
 飛鳥を歩いてください。古代史を訪ねる飛鳥、謎の石造物を訪ねる飛鳥、そして、もうひとつの飛鳥も楽しんでください。
『林泉』第588号 平成14年6月号 「ぶらぶらある記」より