第五回 梅ヶ畑と三尾

◆宝篋印塔
 宝筐印塔はわが国の平安時代に中国の呉越国王の銭弘俶がインドの阿育王の故事にならって八万四千の銅塔を作り、それに宝筐印心呪経を納めて諸国に頒与したもので、八万四千塔、または金塗塔とよばれ、わが国にも何基かが伝来しており、石造宝筐印塔はその形を簡略化して鎌倉時代中期から現れ、五輪塔とならんでわが国石塔の二大主流となるほど流行しました。塔は基礎・塔身・笠の順に積み、その上に相輪を立てます。石造宝筐印塔は各部の平面が方形で、笠の四隅に隅飾の突起をつけているのが特徴です。全国各地、何処の墓地や寺へ行っても必ず目にするものです。
  宝筐印塔の時代判別はおおむね隅飾突起の傾斜と装飾で時代を想像することが出来ます。隅飾り突起が垂直に立ち、基礎、塔身、笠などに装飾が少なくおおらかなものに古い時代の形式を見ることが出来ます。何処にでもある宝篋印塔ですが、宝篋印塔の特殊な形を知らずに目にすると何か変な石の塔だなぁ≠ニいう印象をける場合もあるようです。

左:近代の宝篋印塔、隅飾り突起に内外とも反り返った石工の技術誇示が見られる。
右:滋賀県金剛輪寺庭園内宝篋印塔(鎌倉時代後期)


  御室から高雄を経て北山山中の中川へ至る一条街道(現周山街道)沿いに点在する村落の中川・一ノ瀬・中島・善妙寺・広芝・平岡の六ヵ村を梅ヶ畑の名でよんでいました。一条街道の途中善妙寺村の北に御経坂峠があり、北部は清滝川に面し三尾ともよばれ、紅葉の名所として知られる高尾(雄)・槇尾・栂尾で、それぞれ神護寺・西明寺・高山寺があり、古く平安時代には密教系の国家鎮護の寺院として、中世初期には真言宗の文覚上人・華厳宗中興の明恵上人などによって大伽藍が建立されました。
 この梅ヶ畑に宝篋印塔の古い形式のものが残っています。
 御室から梅ヶ畑に入った最初の集落が平岡で平岡八幡宮が鎮座します。高雄神護寺の守護神として創建されたといわれる平岡八幡宮は、現在神殿天井の花絵と椿の社として観光客を集めています。国道162号線は高雄小学校の前から御経坂峠へと登っていきますが、ここから右に入った周山街道に現在梅ヶ畑奥殿町、旧善妙寺集落があります。今日の最初は、この集落にある為因寺の宝篋印塔です。

◆為因寺宝篋印塔〔重文〕鎌倉時代中期
 為因寺は現在阿弥陀如来を祀った本堂と庫裏のみの浄土宗の小さなお寺ですが、もとこの地にあった高山寺の別院善妙寺を継いだ寺と伝えます。善妙寺は善妙尼寺ともいい、貞応二年高山寺の明恵上人が、承久の乱に敗れて高山寺にのがれてきた朝廷方の妻妾たちを救済収容した比丘尼寺で、女人成仏、女人救済の神といわれる善妙明神を鎮守神としたものですが、寺は早く廃亡し、天正七年に 再興されたのが為因寺です。
 書院横の庭先にある宝篋印塔は花崗岩製、高さ二m強。相輪の一部と基礎の下部を失っています。しかし塔身が大きく、笠石四隅の隅飾は馬耳状と呼ばれる形で、内側の弧線は一弧で直立しています。隅飾は別石で作り四隅にのせてあります。素朴・雄大で、そこここの墓地で見かける宝篋印塔とは種類の違う石塔のような気がします。塔身正面に「阿難塔」、背面に文永二年(1265)建立の文字が見えます。釈迦の弟子阿難の請いにより、釈迦の姨母(おば)大愛通が女人としてはじめて出家を許された縁により、善妙寺の尼僧たちが阿難を供養して建立したことが知られます。年号を持つ宝篋印塔としても貴重であり、その大きさ雄大さでは群を抜くものです。


◆栂尾高山寺
 三尾のうち清滝川の一番上流に位置するのが栂尾です。栂尾は明恵上人が茶を栽培して茗園となったことで知られます。『喫茶雑話』には「明恵上人渡唐せさせ給ふ、帰朝のみぎり、彼一株の種を袖につゝみ、筑紫背振山に移し、そのゝち栂尾にうつし、その後今の宇治山に移し給ふ」とあり、また、「都林泉名勝図会」では、建仁寺の栄西が帰朝して明恵に茶の実を贈り、栂尾の深瀬三本木に植えられて「天下茶園の初とす」とあります。
 鳥獣人物戯画〔国宝〕で知られる栂尾山高山寺は文化財の宝庫といわれ、平成六年には「世界文化遺産」に登録されました。石水院〔国宝〕は明恵上人が後鳥羽院より学問所として賜った建物で、簡素な中に優雅さを保ち、生活の知恵の結晶ともいえるきわめて機能的な構造をもち、鎌倉時代住宅建築の傑作とされています。

  石水院の入口に笠塔婆が立っています。高さ1.7m、基礎の上に塔身・笠・宝珠を一石で作ったもので、正面上方に小さな梵字があり、中央に大きく石水院と刻み、下方には建保五年・・・の文字が見えます。左側面と背面三行に銘文があり、はじめ天福元年に木造の卒塔婆を建てたところ朽損したので、元亨二年(1322)に石で作って再興した旨が読み取れるそうです。

◆高山寺宝篋印塔〔重文〕鎌倉時代中期
 開山堂背後の開山廟わきに宝篋印塔、如法経塔、石灯篭が点在しています.山端に三基並んだ石塔の一番左が宝篋印塔です。この高山寺宝篋印塔は高さが2.5m程度、相輪は一部欠けているようです。笠の隅飾も馬耳状で大きく別石で作られています。為因寺の宝篋印塔と非常によく似ていますが、基礎は低く塔身の背が高く軽やかな感じがします。よく見ると隅飾は少し切り込んで二弧になっています。そのあたりから為因寺宝筐印塔より少し時代が下がるかと考えられているようです。右手に同じような馬耳状の隅飾を持つ宝篋印塔の残欠があります。

 宝篋印塔の右並びに立つのは如法経塔〔重文〕です。基礎の上に四角な一重の塔身を置き、その上に宝形造りの笠石と宝珠を置いた簡素な形式ですが、宝珠は形よく、下の露盤と一石で作られています。笠の軒反りはゆるやかで、よく鎌倉時代の様式を示しています。塔身正面に「如法経」と三字を刻んでいるのは、この下に法華経を埋納したものでしょう。


◆高山寺仏足石
 開山堂から金堂へ向かう途中に仏足石があります。仏足石は釈迦が入滅以前に残した足跡を石の上に刻んだもので、釈迦が説法している姿として信仰されてきました。奈良薬師寺の仏足石は天平勝宝五年のものですがほとんどは江戸時代のものです。この仏足石も文政年間のものですが、足形の表面に如来の三十二相の内の一つが表示されています。五本の指先には卍字文、その下には宝剣・双魚文・宝花瓶・宝螺文。中央には千幅輪、かかとには梵王頂相文が説かれています。
 仏足石は釈迦が説法している足跡を標したものですから指がこちらに向かっているはずですが、ときどき指先を上にして置かれているものや、この仏足石のように釈迦の後ろを拝む状態でおかれているものもあります。


◆槇尾西明寺
 槇尾山西明寺は天長年間に神護寺の別院として創建したのに始まると伝えますが、その後神護寺より独立し、永禄年間に兵火にあって焼亡し、現在の本堂は元禄十三年に桂昌院の寄進によるものです。本尊の木造釈迦如来立像は清涼寺式釈迦像で鎌倉時代、木造千手観音立像は平安時代の作で、ともに重要文化財に指定されています。境内にある槇の木は樹齢六百有余年といわれ、清滝川のせせらぎを渡る朱橋と共に槇尾山西明寺の雰囲気作っています。

◆高雄神護寺
 高雄の神護寺は平安京造営の最高責任者和気清麻呂公が創始だと伝えます。その後弘法大師が入山、真言立教の基礎を築かれたといいます。寿永三年文覚上人により復興された山内も応仁の乱の兵火により大師堂を残して焼失したそうです清滝川にかかる朱橋を渡った神護寺登り口に下乗笠塔婆があります。現在は笠を失っていますが、塔身の頂上に柄穴が残っています。下乗石ではあっても笠塔婆の形式を持っていたものと思われます。竿の上部には金剛界大日の梵字バンが刻され、下には下乗の文字が大きく彫られています。一番下に刻まれた銘文によって鎌倉時代正安元年に作られたことがわかります。

 全国に多々ある下乗石の中で、在銘の遺品ではこれが一番古いものだそうです。
 この下乗石から少し上った左谷川に一基の宝篋印塔を見かけました。相輪を失い別の宝珠が載せてありますが、全体によくととのった宝筐印塔です。返花を持つ二段の基壇の上に格狭間と返花座をもつ基礎を置き、塔身には月輪の中に梵字の種子が刻されています。隅飾は少し傾斜していますが三弧になって華麗です。崖ぶちにありそばに近寄ることは出来ませんでしたが苔むした返花の形も美しく見えます。南北朝時代にはもっていきたい丁寧なつくりです。
 神護寺は真言宗の古刹で、山岳寺院らしく下乗石から長く険しい石積の階段を上りつめると仁王門にたどり着きます。弘法大師住房跡といわれる大師堂〔重文〕や三絶の鐘〔国宝〕を収める鐘楼を見ながら金堂へ向かいます。金堂は昭和十年の再建ですが、国宝や重要文化財が多数収められています。
  神護寺の金堂の後ろ山上に文覚上人の御廟があって、石造露盤と五輪塔が残されています。

 

◆五輪塔
 五輪塔は密教において胎蔵界大日如来の三昧耶形とされ、五輪塔そのものが胎蔵大日を象徴するものですが、この塔形は早くから宗派を越えて日本人に親しまれるようになったので遺品はいたるところで見受けますが、その形状が単純であるため、銘文がない場合は時代の判断が難しくなります。形としては下から方形の地輪、球形の水輪・方形造の火輪・半球形の風輪・宝珠形の空輪を積み上げるのが石造五輪塔の一般形式です。風輪と空輪は小さなものですから一石で彫成されます。梵字を全く彫刻しない五輪塔が多くありますが、梵字を刻んだものでは、各輪に「キャ・カ・ラ・バ・ア」の五大の種子を彫します。



 平安末期からの年号の残る五輪塔が岩手県や大分県、福島県に残されているそうですが、近畿では奈良県当麻北墓地の五輪塔は凝灰岩で高さ2.5メートルに近い雄大なものです。地輪が低く、水輪は宝塔を思わせる壺形、火輪の軒は厚く真反りし、空輪がやや押しつぶした宝珠になっています。各輪四方に雄大な梵字が彫られ、無銘ですが平安時代後期の像立とされています。笠置寺解脱上人五輪塔も高さ1.64メートル、地輪は背が低く、水輪は少し角ばった形になり、火輪の背も低く、風・空輪もおおらかな形です。四方に五輪塔種子を薬研彫し、鎌倉様式完成直前の姿を持っています。大阪府勝尾寺の熊谷直実供養塔と伝える五輪塔は、高さ1.56メートルですが非常に小さく感じます。地輪は低く、やや角ばった水輪、勾配はゆるく軒反りのおだやかな火輪、風・空輪は背が高いが、宝珠が蓮の蕾のような形をしているのは古遺品に例を見ます。各輪四方に刻まれた梵字の書体など鎌倉前期の造立とされています。
 

当麻寺墓地五輪塔
平安時代後期

笠置墓地・解脱上人五輪塔
鎌倉時代前期

勝尾寺・熊谷直実供養塔
鎌倉時代前期

◆文覚上人五輪塔
 文覚上人の御廟跡には二つの五輪塔と石造露盤が残されています。
 左側の五輪塔は鎌倉時代の古調をもつ文覚上人の五輪塔と伝えるものです。高さは1メートル強、地輪は低く水輪は下ぶくれになり、火輪の屋根勾配はゆるく、軒はうすく真反りを示し、風・空輪の比例は大きく美しい姿を保っています。鎌倉時代も早い時代の様式です。
 文覚上人は俗名を遠藤盛籐という城南離宮(いまの城南宮)を守る北面の武士であったが、源渡の妻、袈裟を誤って殺したため出家をしました。荒行を積み、高雄の再興に力を尽くしましたが、伊豆に流され、源頼朝の知遇を得たと伝えます。のち、佐渡、対馬に配流され、没するという、数奇な運命をたどります。
 この穏やかな五輪塔を見ていますと、荒々しく数奇な生涯を送った文覚上人とはなぜか結びつかない気がしますが、勝尾寺の五輪塔と近い古調が感じられます。

 右の五輪塔の前には「後深草天皇皇子性仁親王墓」という宮内庁の表示があります。後深草天皇は寛元四(1246)年より13年間在位された天皇です。性仁親王墓五輪塔は高さ1メートル弱、地輪は低く水輪は壺形、笠の軒反りもゆるやかで、空・風輪の大らかさはその時代に近い様式をもつ美しいものです。
◆石造露盤
 二つの五輪塔の間に石造露盤が置かれています。
 露盤とは四角な台の上に宝珠をのせ、宝形造や八角などの建物の頂点に置いて雨仕舞の役目を果たす建築部材で、屋根の装飾もかねたものです。今はほとんど金属性か瓦で出来ていますが鎌倉時代の石造露盤がいくつか残されています。奈良県室生寺大師堂の屋根の上や奈良県栄山寺の小堂の中にそれを見ることができます。そして枚方の安養寺には平安時代までさかのぼるかと思われる凝灰岩の露盤があります。

 この文覚上人御廟跡の露盤は花崗岩製、高さ90pもあり、四角な露盤の側面には格狭間を二つづつ作り、その上に伏鉢を作り、上に宝珠を置いています。伏鉢と宝珠の間にくびれた複弁を上下に飾り、鎌倉後期の様式をあらわしています。

 左の文覚上人五輪塔の四隅には廟の柱をうける石の礎石があります。二段の請花の礎石はもと木造の小建築があってその内に五輪塔が納められ、この石の露盤はその上にのせられていたものかと思われます。

 神護寺下乗石から橋を渡った対岸に鎖で止められた空き地があり、そこに板碑が置かれています。「高雄女人禁制・萬治三(1660)年」と記されています。大峰山や高野山の女人禁制はよく知られていますが、江戸時代にはこんなところも女人禁制だったのだと、「ぶらぶら歩き」で何処でも行ける現代の女性に乾杯です。

『林泉』第590号 平成14年8月号 
『林泉』第591号 平成14年9月号「ぶらぶらある記」より